フィジー諸島の人口の半分はインド人って知ってた?ローカルから聞いたフィジーの歴史

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南半球にあるフィジー諸島。

実は、このフィジーの人口の約半数近くが、祖先にインド人を持つフィジアンインディアンという事は知っていましたか?

フィジーで働いてた時に原住民であるフィジアンのボスや同僚から聞いた話と、同じく同僚のインド系フィジー人から聞いた話を基に、フィジアンとインド系フィジー人の「歴史」や「カニバリズム」について実際にローカルから見聞きした事を書こうと思います。

(それぞれ世間話の途中で聞いた話なので詳しい年号などは聞いておらず、一部「だいたいこれくらいの時期の話なのかな?」という感じで当てはめて書いています。その為、もしかしたら史実と若干異なるかもしれませんが、話の内容は聞いたままを書いています。)

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フィジー人とインド系フィジー人は仲が悪い?

フィジーにはとても温厚な人が多く、実際僕も留学した後に現地で働いたことがありますが、危険な話はありません。

そして、フィジアンも、インド系フィジー人も表面上はとても友好そうに見えますし、フィジー国内の一般人同士でであからさまな対立はありません。

しかしふとした時、たとえば僕が「今日出会ったばかりの奴に家に来いって誘われた」(フィジーでは意外に結構こういうことがある)などと言うと、フィジアンは「それはインディアンじゃないか?あいつらお金を盗むから気をつけろ」と言い、インド系のフィジー人は 「それはフィジアンだろう?着いていくと縛り上げられてボコボコにされるぞ」などというような陰口は日常茶飯事です。

観光や留学で訪れた際には、たまに陰口を聞く程度ですが、これが一緒に仕事しているともう大変。

何かトラブルが起きるたびに「フィジアン派」と「インディアン派」に分かれて対立・・・それも裏で 笑。お互いに「だからフィジアンは・・・」「だからインディアンは・・・」と、ある事無い事吹き込んでくるので真実を見極めるのが大変でした 笑

「え?お前らさっきまでブラザーって呼び合ってたやん!?」ってこともしばしば 笑

このような対立はフィジーという国の歴史が関わっている根深い問題なのですが、興味深いのはお互いに元凶である国に対しては特に何も思っていないところ。

イギリス人が連れてきたインド人(インド系フィジー人側の視点)

Wikipediaによると、1897年にインド人はサトウキビ・プランテーションのためフィジーに来ることになったありますが、実際はどうだったのでしょうか?

同僚のインド系フィジー人の話によると、当時フィジーと同じくイギリスの植民地であったインドで「日帰りで稼げる仕事がある」という話を持ちかけられてたそうです。

もちろん、インドからフィジーに行くわけですから日帰りで帰れる筈は無く、全くの嘘。しかしその話を信じた大勢のインド人が船でフィジーに行くことを決意します。

3隻(4隻だったかな?)の船の内、無事にフィジーまで辿り着けたのはわずか1隻だったそうです。

なんとかフィジーに辿り着いたインド人たちは、そこで奴隷として扱われたそうですが、奴隷として働いたインド人たちのおかげで、フィジーは大きく発展しました。

当然、現在フィジーに住んでいるインド系のフィジー人たちは、自分たちの(先祖)おかげでフィジーが発展したと思っています。

イギリス人が連れてきたインド人(フィジー人側の視点)

一方、フィジアンであるボスに聞いた話ですが、上記と概ね大差はありません。

しかしボスが言うには、当時木が生い茂ってほぼほぼ未開の地だったフィジーに「労働者を提供するので、フィジーにある資源をが欲しい」という約束をイギリス側が持ちかけてきたそうだ。

この「資源」が何を指すのかは分かりませんが、ボス曰く「こうして何も知らないフィジー人から貴重な物をどんどん奪っていった」そうです。

この約束が公平な物だったかそうでないかは置いておいて、とにかくインド人はもともと労働者としてではなく、奴隷としてイギリスから売り飛ばされてきたというのはフィジー人とインド系フィジー人の双方の共通した歴史認識でした。

個人的には当時既に植民地であったフィジーを相手にイギリスがわざわざ「取引」なんてするのかな?とは思います。

バリバリ働いたインド人

「フィジアンは仕事無くなってもその辺で魚取ったりして生きていけるから、フィジアンは働かない」と、よくボスが同じフィジアンの事を嘆いていましたが、フィジーに限らず南国の国は実りが豊かなので、「生きるために労働する」という意識はもともと低いのでしょう。

国としては恵まれた環境であったとしても、奴隷として連れてこられたインド人は、フィジアンと違って毎日過酷な労働をしていたというのは想像に難くありません。

その結果、もともと自給自足に近い生活を送っていたフィジアンに対して、奴隷として連れてこられた筈のインド人は主要な産業につき、どんどんと勢力を拡大します。

インド系フィジー人の同僚曰く、フィジーのお札に印刷されている女性(エリザベス女王とかそんなだった気がするけど覚えてない 笑)が、「私たちを解放してくれた」と言っていましたが、「話を聞く限り、フィジアンよりもイギリスのせいじゃないのか?」と思ったことを覚えています。この記事を読むと、どうやら1970年の事っぽい。

しかし、他の資料(奴隷ではなく「長期労働という表現がされている」)では「1920年に(サトウキビプランテーションの長期契約が)が終わった」と書かれていますので、同僚の話が本当なら、実質的には1970年まで奴隷のような扱いをされていたようです。きっと強制的な労働が終わった後もインド系フィジー人に対して不公平だった法律などは1970年代まで続いていたのでしょう。

実際どうだったかは置いておいて、インド系フィジー人である同僚が、「1970年まで奴隷的な扱いをされて、それをイギリス人の女王が解放してくれた」と感じていることが重要な点です。

フィジアン側の言い分

インド系のフィジー人は、奴隷として連れてこられた後「ただただ勤勉に働いただけで、フィジー人から悪く言われる理由は無い」と思うかもしれませんが、フィジー人側の視点から見ると、単純にそうとも言えないようです。

インド人が連れてこられたのが1879年、そして解放されたと言っているのが1970年です。

その間に起こった大きな出来事といえば、フィジー系住民の民族運動「ヴィチ・カンバニ運動」です。

ヴィチ・カンバニ運動とは、イギリスの植民地行政による支配でバナナが不当に買いたたかれていることを知り、1913年にフィジーで初めてのフィジー人による会社組織を起こした一連の運動のことです。

要するに既にこの時点でフィジアンたちの中には、イギリスに対する不信感や、自分たちの国は自分たちで何とかするという意識が高まっていたと考えられます。

その後、1987年にフィジーで最初のクーデターが起こります。

その時の首相はティモシー・バヴァドラという人物であり、インド系が支持する国民連合党とフィジー労働党の連立政権でした。これに対してフィジー国防軍のシティベニ・ランブカ中佐がクーデターを起こし、イギリス連邦を離脱します。

その後1999年に行われた総選挙ではインド系のマヘンドラ・チョードリーが首相に就任するもまたしてもクーデターが起こります。

ボスによると、当時(たぶん話の内容的に1987年より前)フィジーには国王的な存在、とにかくフィジアンで一番偉い人居たそうなんですが、彼は「インド人も平等にする」と言って、政府の役職など重要なポストに積極的にインド人を採用したそうです(たしかに、そう考えるとインド系の同僚が言ってた「1970年に解放」されたって言ってたのに、それ以前にインド人が政界に居たことも説明がつく)。

しかし「インド人も平等」というのはあくまで建前であって、実際には自分より権力を持つフィジアンが出現するのを恐れたからだと言います。

その偉いフィアジアンはインド人によくしてインド人たちからの支持を集める一方で、原住民のフィジアンには仕事が回ってこず、その怒りは「奴隷のくせに」と、インド人たちに向けられたそうです。

2000年までには国の主要や役職がほとんどインド系で埋まっていたものの、軍隊だけはフィジアンで結成されていました。そして、その2000年に二度目のクーデターが勃発、という流れだそうです。

そんなわけで、フィジアンとインド系フィジー人がいがみ合っているのは「仕事奪われた云々」とかいう単純な話でも無く、イギリスがインド人を連れてきたことからはじまり、その後の権力者の都合もあいまって、連れてこられたインド系フィジー人は勿論、原住民であるフィジアンすらも被害者感情を持っています。

ただ、この話もあくまで普通のフィジアンとインド系フィジー人に聞いた話なので、史実的にどうなのかは知りません。しかし、大事なのは彼らがそう思っているということ、また双方の怒りがお互いに向いているということです。

おまけ:カニバリズムと宣教師

祖父が酋長だったという同僚の話(嘘かどうか未だに分からないですが・・・)によると、当時フィジーにはカニバリズム(食人文化)があったのですが、何人もの宣教師がフィジー人に対してキリスト教への改宗を迫っては食べられたそうです。、フィジーにある博物館には当時、人間を狩っていた道具などが展示されています。

フィジアンのカニバリズムは、単純に食べ物として人間を見ていたわけではなく、戦った相手部族の魂を鎮める為に食べていたそうです。

それだけならなんか分かりそうな気もするんですが、年に一度(だったかな?)村でお祭りがあり、その時に酋長は1人の家族を指名するそうで、この時指名された家族は全員食べられてしまうそうです。

こう聞くと「酋長の家族だけは安全」と思いがちですが、酋長が亡くなった際には「1人では可哀想」という理由で、なんと長男を除いた家族を全員殺して埋めていたそうです。

まぁ、そんな考えられない風習のあったフィジーだったのですが、話を聞いたその同僚の祖父の時代に「こんな悲しい事はもう辞めよう」と、改宗することになったそうです。

実際にフィジアンの村には教会があり、現在では多くの人がキリスト教徒です。

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